今更ですが、自己紹介をしたいと思います。
なぜ48歳になって仕事を辞めて独立しようと思ったのか、今何を感じて何を考えているのかなど
お時間のある方はお付き合いくださると嬉しいです。
結婚してから
私が結婚したのは25歳の時でした。社会人になって4年で今考えても早かったと思います。夫は24歳!
それはもう、まるでおままごとのような結婚生活だったと思います。
私が九州、夫が神奈川で遠距離恋愛をしていたので、ただ一緒に居たかっただけでした。いずれは子供が欲しいと思っていたので、節約生活をしてお金を貯めて、時には旅行に出掛けてという生活をしていました。
そして結婚してから2年が経とうとした頃、妊娠しました。初めての妊娠でとっても嬉しくて、色んな人に報告して、大騒ぎしてました。ところが、妊娠は続かずに流産。その後に「ダメだった」という報告をするのが辛かったのを覚えています。
その時は妊娠したら出産するのが当たり前だと思っていたので、まさか自分が流産するなんて夢にも思っていませんでした。本当に無知でした。そのことがショックで、しばらく会社を休み自分なりに考えました。
その後、人の役に立つ仕事に就きたい!理学療法士になろうと考え、それと同時に受験勉強を開始しました。私の家族は応援してくれましたが、夫の両親は良い顔はしませんでした。「結婚しているのにまた学校に入るだなんて」と。そりゃそうですよね。
でも自分がやりたいことに挑戦したかったので、結局は意見を押し通して専門学校を受験し、合格することができました。
最後は応援してくれた夫の両親に感謝しています。
専門学校時代〜第1子出産まで
理学療法士の専門学校に入学したのが27歳の春。同級生は10歳年下の高校卒業したばかりの子たちでした。でも年齢なんて関係なし!同じ目標に向かって切磋琢磨しながら一緒に勉強しました。ただ、私が入学した学校が九州だったので、九州と神奈川の遠距離婚になってしまいました。
離れて暮らすと心の距離も徐々に離れてしまい、トラブルが発生することも増え、、、2人で考えて夫が仕事を辞めて九州に引っ越してくれることになりました。慣れない土地での就職など夫もとっても大変だったと思います。
その後国家試験に合格し、晴れて理学療法士として就職し、働き始めました。そして1年経った頃、妊娠しました。今度は喜びよりも不安が大きく、しばらく夫以外には話せませんでした。しかし淡い期待も虚しく再び流産してしまい、奈落の底に突き落とされた気持ちでした。でも今回は数日泣いただけで仕事に復帰しました。
それから再び1年が経った頃、妊娠し3度目の正直で出産することができました。
再び神奈川へ
娘を出産し、生後半年で仕事復帰し保育園に預けて忙しい日々を過ごしていました。
娘が1歳になる頃、夫が「神奈川に戻りたい。長男だし親のことも気になる」とのことで、神奈川に戻ることを決意しました。
今まで私の実家である九州で一緒に生活してくれたことに感謝の気持ちで一杯だったので、これからは神奈川で暮らすことに同意しました。
土地勘もなく、友人や親戚もいない孤独な子育てでした。引っ越してしばらくの間は毎日ホームシックで泣いていたのを覚えています。娘と2人っきりで過ごすのも辛く感じる時があり、ストレスフルな子育てをしていました。毎日駄々をこねて泣く我が子に手を挙げたこともありました。それも何度も・・・・自分のストレスのはけ口を子供に向けてしまったダメな母親でした。
「こんなママでごめんね・・・」って泣いて謝って、でも娘はいつもギュッと抱きしめてくれました。ほんとにごめんね。
これではお互い不幸だと思い、就職活動と保育園探しを始めました。程なくして就職先が決まり、娘を無認可保育園に預けて働き始めました。
無認可保育園だったのでお弁当とおやつを持たせる必要があり、毎朝早起きして家族3人分のお弁当を作り、
娘のおやつもなるべく手作りしていました(蒸しパンなど簡単なおやつ)。忙しすぎてその当時の記憶があまりありません。
職場でのいじめ
職場は私と同年代のママさんばかりでした。でもみなさんパートで、正社員は私1人という状況。その後独身の正社員の若い人が入職しましたが、正社員よりもパートさんの人数が多く、パワーも強い、ベテラン揃い。
パートママさんは子供が病気で休んでも、正社員の私は子供が病気でも休めませんでした。
義母に毎回お願いして体調の悪い娘の面倒を見てもらい、休むと文句を言われました。
なぜそんな理不尽なことを言われたりされたりしなければならないのか?その当時の私は判断能力が著しく低下していたのだと思います。忙しすぎて判断することさえ出来なくなっていました。完全にキャパオーバーでした。そして誰にもSOSを出すことができない状態でした。本当に追い詰められていました。
職場でみんなの前で文句を言われて、言い返せなくて泣いたこともあります。毎日会社に行くのが憂鬱でした。残業して残業申請をしたらパートさんに「勝手に残業代つけるなんて信じられない!」と罵倒されたこともありました。それまで散々残業ばかりしていて、我慢ならなくなってその時意を決して1時間残業申請したのです。
そのうち耳の聴こえが悪くなり、耳鼻科を受診したところ、突発性難聴疑いとの診断でした。
そして、現在も聴力が低下したままです。
聴力が低下して
聴力が低下してしばらくして耳鳴りが始まりました。耳鳴りが始まった夜のことは今でもはっきり覚えています。
それ以来24時間365日ずっとキーンという高音の耳鳴りが続いています。
最初はすごく気になって薬を処方してもらったりしていましたが気休めだと気付いてからは、飲まなくなりました。
高音域難聴なので、高い電子音などは聞こえません。例えば体温計の「ピピピ」とか冷蔵庫が開けっぱなしの「ピー」音は全く聞こえないので家族が教えてくれます。あとは女性の声は聞き取りづらいです。複数人で話す会議などは聞き取れないことも多く、聞こうと努力するのでとっても疲れます。「あ、もうダメだ」と思った時は自らスイッチオフして適当に愛想笑いで乗り切ることもあったりします。
聴力低下し、もう完全にカラダが拒否反応を示していると思ったので会社を辞めました。今考えるとその状態まで対処しなかったことが悔やまれます。悔やんでも仕方ないことですけどね。
第2子出産
その後すぐに再就職しました。新規立ち上げの会社で責任のある役職にもつき、毎日大忙しでした。でも自分たちで作り上げていく達成感もあり楽しかったです。その後第2子を出産し、産後3ヶ月で職場復帰し、代わりに夫が育休を取得してくれました。
その時の私は仕事をこなすことが私の役割でありアイデンティティだと信じて疑いませんでした。
子育てや家族よりも仕事が優先の、仕事人間でした。
11年間おつかれさま
その職場では部署の責任者として11年間働きました。責任のある立場になり、もっともっとと自分を追い込んでいました。新しい部署の立ち上げに関わった時は、ストレスで円形脱毛症になったこともありました。
全く自分のことをケアすることをせず無視して走り続けた11年間でした。
定年までこの職場で働き続けるんだろうな・・・と漠然と考えて過ごしていましたが、コロナ禍で一旦立ち止まり、色々なことを考え直す機会を得ました。
毎日のリハビリ業務はとっても楽しかったです。利用者様と会話しながら、時には愚痴を聞きながら、少しでも良くなって欲しいという一心で仕事をしてきました。でも「私はここにいるべきじゃない」、環境や人間関係に違和感を感じるようになってきました。
退職を決意してからは早かったです。何の悔いなく走り抜けた11年間でした。
ただ、一つ言えることは「もっと自分を大切にしておけばよかった」これだけです。
心も身体も、かけがえのない自分をなぜそんなに粗末に扱ってしまったのか。
これからは自分を大切にして生きていこうと決めました。
そして、私と同じように自分のケアをおざなりにしてきた女性達を救いたい!もっと自分のことを大切にして欲しい!!
その一心で姿勢改善と食で人生をととのえる講座を立ち上げました。
私のこの熱い想いが届いてくれたら嬉しい
また続きを書くかもしれません。
会社を辞める決断をしたことはこれっぽっちも後悔していなくて、本当に良かったと心の底から感じる毎日を過ごしています。
金銭的には貧しいかもしれませんが、心は豊かに満たされています。
そして、それを認めてくれた家族に心から感謝しています。
最後までお読み下さりありがとうございました。
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